デザインリサーチ入門 - 構造とメッセージ

本日は中村 紀章さんにお声がけいただき、静岡文化芸術大学1年生 実習課題の中間講評にお声がけいただき参加しました。「場所のコレクション」というテーマで5グループがフィールドワークに出向き、魅力的な場所の採集と分析を行うというもの。
各グループの発表は「無人販売所」「プレイングスペース」「外部階段」「後付け」「高架下建築」というもの。4グループは対象空間や設えの調査、1グループはオブジェクトを対象とした調査のように感じました。
僕は評価軸に「情報の構造化」「新規性」「メッセージ性」「笑い」を設定し、発表を聞いていました。採集した結果をどの「視座・視点」で編集し、どのような「価値」をもつ「共感を呼ぶ」「メディウム」として発表するのかを対象としていました。
発表を聞いている限りでは、既存の枠組みに既存のオブジェクトを整理しているものが多かった印象。そのため、グルーピングを経て新たな評価軸や評価する対象を見いだすことができていたグループを僕は評価しました。調査設計や分析の手法が論理的であるかという基礎的なところです。
新規性や笑い/面白さを評価できるレベルではまだなかったので、採集→グルーピング(分析)→ネーミング(考察)という段階を経て新たな価値を示してもらえたらなと思います。仮説を補強するリサーチでなく、リサーチを元に分析考察して仮説の検証を進めたらもっと面白くなるはず。
新たな価値を見出す力はどんな領域でも応用可能な能力なので、是非とも前向きに取り組んで見て欲しいなと思います。

自作 水タバコ(シーシャ)をつくろう #shisha

2014年12月、太陽が6時間しか顔を見せない真冬のフィンランドを抜け出し、太陽を求めて向かったエジプトの海浜リゾート地ダハブ。日中の気温は26度ほどになるけれど、乾燥しているので過ごしやすい。ヨーロッパからも寒さを避けるように人びとが訪れるまちダハブで出会ったのが水タバコです。紙巻タバコとは異なり、水をフィルターにすること、煙草の葉ではなくさまざまなフレーバーを楽しむこと、それが1時間程度続きます。ゆったりまったりとするにはもってこいの嗜好品。
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(参照: 水たばこ(シーシャ) | JTウェブサイト)

ダハブでは、午前中にスキューバダイビングの講習を受け、お昼を受講生たちと近くのサンドイッチ屋で食べ、午後からはカフェで本を読んだり水タバコを吸っているとネコが膝に乗ってくる。猫をなでながら水タバコをくゆらせ、波の音をBGMがわりに日本の家族に向けて絵手紙を描く。なんとも贅沢な時間の過ごし方をしていたな〜と仕事に追われる今、あの日のことが思い出されます。滞在中はほとんど毎日楽しんでいた水タバコ、帰国前に道具とフレーバーを一式を購入し、フィンランドへ持ち帰りました。
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(写真はレストランでお茶をしながらシーシャを楽しんでいた私 Photo: Satomi Koyanagi)

日本へ帰国してからは修士論文の執筆やフリーランスとして活動し始めたこともあり、忙しい日々に追われてほとんど出番がありませんでした。ある時、ふとその存在を思い出したのですが、フレーバーは古くなっている。そこからシーシャカフェを探し、仕事終わりなどのタイミングで2週に1度くらいで通うようになりました。お店の方にミックスしてもらい、行くたびに少しずつフレーバーを変えているので飽きることなく半年くらいお邪魔しています。そんな折に、ふと「原理は簡単だから自分でもつくれるのかな…」と思うようになり、仕事の合間に情報や部品を集めること1ヶ月。ようやく試作品が出来上がったので公開します。
もちろん水タバコもあなた、副流煙によって周囲の方の健康を害する恐れがあります!また、未成年は喫煙できないので、絶対にマネしないように!

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STOCK YARD ARIMATSU トークを振り返る

先週末は名鉄百貨店内にあるOpen MUJIで、出張PORTAL; SALONを開催しました。
#10 ゲストの武馬 淑恵さんからは名古屋市職員として関わるなかで、産地の魅力を一回性の高い(観光、経済振興)のための商品として取り扱われていることに気がついたと言います。一念発起して大学院でテキスタイルデザインの研究を行い、地域のお祭りで着る自分だけの法被を製作するワークショップを元銭湯で開催。「ばをひらく」ことを通じて、持続的に産業や伝統との関わりを地域に設けるプレイヤーになった経緯をお話いただきました。観光、暦まち、文化推進だけでなく、行政区分を超えた協働がこれからの課題であることが実感できました。
翌日の#11 ゲストである森田 一弥さん、 柳沢 究さんからは「まちをひらく」ことについて、有松や京都を下敷きにお話いただきました。名城大学として有松に関わる柳沢さんからは、物理的、社会的、経済的、人的な「まち」をひらくことで、継承、循環、刷新といった異なる時間軸の流れを引き受けるのではないかいう指摘がありました。共存する時間の差異に、リンチが指摘する都市の豊かさが現れるというお話はまさに有松や京都の特徴を言い表しているようです。また、森田さんはさらに解像度が高く「素材をひらく」ことについて、インテリアやリノベーションといった自作作品の解説から、まちへの関わりしろをラディカルに取り組む姿勢についてお話しされていたように感じました。建築のファサードが垂直に歴史が積み重ねられる欧州に対して、水平な(手前から奥へ)層となって現れる日本の建築。部分的な解体や修繕を通して時間の経過を肌で感じ、現代的な時間、技法、素材を組み合わせて再構築を行う。これにより複数の時間が同じ空間に流れ、メディアとしての建築が発するメッセージをより読み取りやすくなるようです。
三者のゲストからは、「複数の時間」を体感することができる空間あるいはまちである有松において、持続的に「よそ者の関わりしろ」を広げる取り組みを実施するための「政策の整理と統合」が『まちをひらく』ために必要であるとまとめることができるのではないでしょうか。今後、私たちの活動にも大いに参考にさせていただける知見だと実感しています。
ご参加いただいたみなさん、ゲストの皆さん、会場のご提供をしていただいた無印良品の溝内さん、井野さんに改めて感謝申し上げます。
なお、トークイベントは終了しましたが、月末の29, 30に開催するワークショップにはまだ若干の余裕があるようです。まさに、先の話を実感できるだけでなく、素敵なあなただけの無印良品絞り染めをつくることができますよ!お申し込みは下記のリンクからどうぞ。
無印良品 名古屋名鉄百貨店「名古屋発を応援しよう 『有松を知る。』Vol.2」 | イベント予約 | 無印良品
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デザインが生成される時、デザイナーはなぜデザインをするのか

本日はトコナメハブトークにて、デザインディレクター岡田栄造さんのお話を聞いてきました。工繊時代から大変お世話になっている岡田先生。

クライアントワークと言うよりは、インディペンデントなプロジェクトにおけるデザインディレクターとは何を考え、行なっているのか。自身初めてのディレクションを行なったRIBBON PROJECTでは、企画書もなく工場見学なデザイナーとの対話がメイン。参加デザイナーから上がってくるアイデアに一番先に触れられる楽しみはあるが、どれにGOサインを出すのか目利きとしての能力や責任が問われる。

岡田先生は「義憤」とおっしゃっていたけれど、市場での差別化のためにデザインが使われる時代に、デザインが本来的に持つ現実拡張性や価値観を揺さぶる切り口をどのように方向付けるのか。その一点がまさにデザインディレクターとしての手腕であることがわかりました。つまり、「なぜデザインするのか」という動機付けを行うことだと感じました。

後半は常滑という地域性もあり、アノニマスデザインの話に。リアルアノニマスデザインを上梓されたときの議論を思い出しながら話を聞いていました。柳宗理がワークショップという手法を通して、工業時代における民藝運動としてアノニマスデザインを確立したように、情報化時代において集団の叡智である集合知によって生み出されるアノニマスなデザイン。主催の水野太史さんからは、ジェネリックなデザインに「切実さはあるのか」という疑問がぶつけられていました。岡田先生は「オルタナティブが成り立ちにくい時代」という前置きをしながら、デザインする/される理由を見つけられることが鍵だと話しているように感じました。

多大なインプットや学習によって人工知能が作り出すプロダクトはデザインされたと言えるのでしょうか。人工知能でなくてもクライアントの課題や条件を満たすことだけで生成されるプロダクトも同様にデザインされたと言えるのでしょうか。水野さんがおっしゃられた「切実さ」はそこには感じられないかもしれません。また、岡田先生がディレクターとして見出す「なぜデザインをするのか」という問いかけもそこには不在なようです。

クライアントワークをこなすとどうしても近視眼的にローカルな話ばかりに目が行きがちです。要求にどう応えるのかが優先され、なぜつくるのか蔑ろにしてしまう。動機や理由を剥ぎ取られないためにも、私は「なぜつくるのか」を考え、「問いかけ」の質を高めて行きたいと思いました。

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アブラゼミがうまいという「経験」と「記憶」

地元のように懐かしい場所での食事で、「あぁ、この味!この味!そういえばこの頃は…」となったことがあるだろう。食事がきっかけで当時を思い起こさせるには、身体的な経験と印象的な記憶がセットなのだ。経験がうまみを引き出し、記憶がスパイスとなるため、親友たちとの懐かしい場所での食事はよりうまく感じる。しかし、当時の記憶はあるけれど経験がなかったり、経験はあるはずだが記憶がなかったり、記憶とのギャップが大きかった場合はどうだろうか。頭上にクエスチョンマークが浮かび、それ以上の会話はさきのように躍動感のあるものではないかもしれない。それだけに「記憶」と「経験」は食事のうま味を引き出す要素なのだろう。僕にとっては、昆虫食がまさにこの2つを有する食事だ。

昨年、僕はDESIGNEAST 06 XO
DESIGNEAST 06 X0 [extra-ordinary]
にて、昆虫食のレクチャーと実食に参加した。2050年には地球1.5-2.0個分の食料*1が必要とされるなかで、昆虫を「食べる」のか「食べない」のかという判断を考えるというもの。ゲテモノ料理よろしく「れる・られる」という可能性の話ではない。食べないならばどのようにして食料自給率を高めるのか、食べるならばどのように現在の社会に昆虫食を実装するのかという判断について議論が行われた。レクチャラーであり、社会への実装を考えている山口大学農学部井内良仁准教授のお話はとても興味深いものだった。前半の話を聞いたうえで、学生が素揚げに調理してくれた〈アブラゼミ・バッタ・コオロギ〉の3種類の昆虫を食べることになった。この中ではアブラゼミが最もおいしく、素揚げにされたことでさくさくとした触感と香ばしい香りが食欲を誘う。エビの素揚げのような味がしたことから、特にビールに絶対合うだろうと。1つ、2つと食べてるうちに僕は昆虫が食卓に並ぶ未来はそう遠くないと考えていた。そのためにもまず、来年は実際に自分でセミを捕まえ、調理し、食べてみようと決意したのだった。

あっという間に時が経ち、2016年の夏。僕はPOKEMON GOプレイヤーでごった返す緑地公園に友人の分も合わせて2人分の虫かごと網を抱えて待っていた。誰もがスマホを持ちながら道を歩いている中、我々だけが桜の木の間を縫うように歩いている。小学生だった自分はどのようにセミを捕まえていたのかを思い出しながら、去年食べていたセミの味を思い出しながら。セミの鳴き声すら美味しそうに感じてきた。
2時間もすると虫かごには20匹を超えるアブラゼミが入っていた。井内准教授に聞いていたように、事務所に戻ると虫カゴに入れたまま冷凍庫にしまい、調理の準備をすすめる。残念なことにクックパッドを見てもセミ料理のメニューはほとんど載っていない(この時はおそらく1つだけ)。素揚げだけでは少し寂しいので、エビ料理からエビチリ(セミチリ)とエビマヨ(セミマヨ)をチョイス。冷凍庫で死んでしまっているセミたちを取り出し、3分ほどお湯で煮る。湯を切り、頭から真っ二つに切る、切る、切る。全て切り終わったら熱したサラダ油の中へ投入し、カラッと揚げる。セミは思ったよりも焦げやすいので注意。塩コショウを降ればそのまま食べられる。秋口を迎えているため、小ぶりのアブラゼミは見があまり詰まっていなかったがサクサクとしていてやはりうまい。料理をしながら皆、ビールが進む。揚げる前はジャガイモやアスパラガスを茹でた匂いがしていたが、揚げてしまえば本当に香ばしい。レモン汁も合う。
続いて、のこったセミに片栗をまぶして炒めるように揚げる。いくつかはケチャップ+マヨネーズの入ったボールへ投入し、いくつかはそのまま鍋に残してチリソースと和える。揚げが甘かったのかわからないがチリソースと合わさったセミは少し硬かった。赤白い衣をまとったセミマヨはみためも華やかで、味もまろやかになりとても美味しかった。素揚げはどうしても虫感が強くなってしまうので、見た目に抵抗がある人にはおすすめしたい。

6人でセミを含めた食事が乗った食卓を囲み、昆虫食や生物多様性、環境問題などさまざまな話をしていた。ほとんどが美味しさに驚いていたが、もちろん抵抗があるメンバーもいた。それが現状なのだろう。昆虫食が当たり前となった社会における「経験」と「記憶」がうまみに結びつくまでにはもう少し掛かるだろう。その時までに僕たちデザイナーはどのような提案ができるだろうか。
実際に、2010年代はヨーロッパのデザイン学校を中心に、昆虫食のパッケージレベルからキッチンツールのデザインまで様々な提案がなされている。RCAの学生(当時)が掲げた昆虫食実装までのビジョンはとても示唆的だ。昆虫食をイベントなどで販売すること、専門のレストランで定常的に販売すること、ランチボックスなど手軽に販売されること、簡単に調理できるレディメイド食品として販売されること、パッケージされた昆虫のブランドが販売されること、そして最後に生きた昆虫が販売されることというものだ。その時に必要なパッケージなどの提案がとても良く出来ているので、詳しくは次の映像を見て欲しい。
vimeo.com

普段は口にしない昆虫を食べることで僕たちが普段口にしている食事の「経験」について考えるきっかけとなった。やはり肉と魚のような生物を食べるときとは全く異なる決意のようなものが必要で、口にしてうまいという「記憶」に結びつくまでのハードルが高い。しかし、見た目や調理方法、機能性などが明らかになることでその慣習は、生魚に抵抗あるヨーロッパで受け入れられた寿司のようにガラッと変わるだろう。昆虫食における「記憶」と「経験」をどのようにデザインすることができるのか考える大事な時間となった。


昆虫食画像は次から。

*1:出展:日本のエコロジカル・フットプリント 2012 http://www.footprintnetwork.org/images/article_uploads/Japan_Ecological_Footprint_2012_Jap.pdf

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