アニメと都市論的な。

今朝はモニターの前寝転がりながら映画見てました。
スカイクロラに引き続き、押井作品GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊2.0

アニメそのもののの感想は割愛。


攻殻で一番好きなところが都市の描写。
今のアジアをそのまんま近未来化させたような発展した都市と荒廃したスラムの二項対立。
超高層ビル群のすぐそばに形成されるスラム都市。

建築的に見ると「錯乱のニューヨーク」の資本主義に則った都市形成とそこからあぶれた廃退した部分がはっきりと見て取れる。スラム街での戦闘シーンや水没しかけの廃退した建物での戦闘シーンがその象徴だろう。素子がゴミ収集車の動向をハッキングするシーンではグリッド形成された過密な都市の様相が映し出されている。
また、垂直分離・建築的ロボトミーまでが描かれる。(垂直分裂はビルの上下の階で機能がバラバラで存在していること。建築的ロボトミーは建築の内部と表層が無関係で存在していること。)公安九課の入っているビルの各階の様子はほとんど描かれることはない。この映画でビル内の様子で出てきたのは部長の部屋、ラボ、駐車場、オペレーターのいる部屋だけである。高層化した都市の中にある九課のあるビルには他の機関がどこに存在しているかが描かれていない。公安六課の部長が来た時でさえ車を使っていることから同じビルに所属していないのだろう。駐車場のシーンでは多数の車の存在が見てとれるが、そのビルの利用者の様子は公安関係者にとどまっている。
ビルの内部の描写に移るが一番注目すべきはエレベーターである。公安という特殊な任務を背負う彼らであるが、彼らの利用しているエレベーターはとても狭く、頑丈な装甲(をしているように見える)で窓のような外を見るための開口は全くない。これはいきすぎているのではないだろうか。そこには同ビルを利用する他の者たちとの完全な拒絶、分断を意味するだろう。また、彼らが利用する各部屋はほとんどどれも窓がない。描かれるビル群はどれもがガラスのカーテンウォールであるにも関わらずだ。それほどまでに内外の隔たりがわかる。


人は記憶と感情を有することで自身を認知する。
記憶と感情をを外部へ移していったとき、その先にはその外部記憶で新たな知的生命体が生まれることの懸念。
人間とは何か。記憶・感情を持つたんぱく質なのか。
それならば、人同様の記憶を有した無機質は人格を持つと言えるのか。
それがまた人間と同じカオ・カタチをしていたら…


これが映画の肝となる部分だが、これは都市としても同様のことが言えるのではないだろうか?
つまり、居住する場所と仕事や娯楽の場所が近かった過去から、その距離を大きく離すことによって都市は新たな独立した都市としての様相を持つ。
都市とは何なのだろうか。
居住し、働き、遊ぶための建物の集まりなのか。
それならば、働き、遊ぶための建物群は都市なのだろうか。
逆に、居住する建物だけの集まりは都市と言えるのだろうか。


社会の在り方、都市について深く考えさせられた作品であった。