都心部へのアクセスか徒歩30分圏内の満足か、という二項対立は思考停止してるのだろうか

先日、不動産関係の方がおこなう覆面座談会の記事(アドレスわからなくなってしまった)で、「家とオフィスのアクセサビリティよりも、徒歩30分圏内に生活を満たす施設があるか(超意訳)」のほうがニーズが高まっていると話題に出ていた。東京都心部を前提に話がなされているのだけど、名古屋と京都を往復する生活をしている僕もうなずく感覚だった。自宅から職場まで、(名古屋滞在拠点の)実家から有松のオフィスまで、どちらも徒歩30分圏内だ。

 

四条も栄も行かないことはないけれど、行ったとて…という感覚になる。それは僕の給料が少なくて物欲が抑えられているからか、2拠点の往復に疲れているからかは分からない。それよりもむしろ自宅から徒歩5-10分以内にあるフレンチ、和食、居酒屋などから得られる充実度のほうがずっと高い。食欲というよりも、そこで過ごす家族や友人、あるいは店主たちとの時間に満足しているからかもしれない。そこまで高くないけど、交際費を払うだけの体験がそこにあるからだろう。妻なんかは実家から送られてきた柿を小料理屋の大将にお裾分けしていたくらいだ。

 

しかしこの徒歩30分以内のコミュニティに閉じてしまうことは、文化の流通速度を著しく下げてしまう恐怖もある。「いつもの」が成り立つハイコンテクストな文脈に身を置くことは、他者性や多様性を蔑ろにしてしまうからだ。相手の変化に自身の変化を重ねることになり、変わらないことが目的となり、不寛容さがぶつかり合う。サードプレイスや粋な人がもつ交錯する環境を設計するように、コミュニティへやわらかく所属することを目指してみたい(それは無責任であるという批判も受け止めながら)。誰かであることも重要だが、誰でもないこともまた文化を受け取る態度のひとつ。思考停止するのではなく、開きつつ閉じる、閉じつつ開く塩梅を覚えていきたい。

 

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