知らない時間の過ごし方


[ヘルシンキ大聖堂]
 今日は日曜日、ヘルシンキの一部の商店は15時、17時を境に店を閉める。何をしようにも空いていないなんていうことはザラだ。今日はランドリーへ洗濯へ行こうと歩いて行ったのだが、日曜日は休みだった。読めないフィンランド語を見てみるとだいたい週末はお店の閉店が早い。
 良く海外に行った人が「日本と時間の流れ方が違う。」などと言っているがほとんどリアリティ持って話を聞くことはできなかった。インターネットが届かない田舎へ行ったことがない僕には当たり前だったのかもしれない。田舎に居ながらネットの世界に触れられるそれはほんとうの意味で田舎になっていなかったからだと思う。ネットを断ち切られ、生身の情報誌帰れなくなったその時に『時間の流れの違い』を認識するんだろう。体感時間の流速はインターネットのそれに比べてやはりゆったりしているものなのだろう。
 ところが、ようやくその実感の入り口にたったものの、ヘルシンキの時間の立ち方はまたそうした田舎の、ネットのない世界と断ち切られた世界の時間の流れ方とも違っているように思う。ネットから、世俗から断ち切る時間を積極的にとっているといったほうが正しいかもしれない。先日、ヘルシンキ大聖堂へ行った時もそうだったが、たくさんの人が階段に座り、なにをするでもなく時間を過ごしていた。せかせかと写真をとっていたのはやはり観光客で、座っていたのは現地の人が多かったようだ。先に一年間留学をしていた友人の話を聞くと、フィンランドの人はただ『日向ぼっこをする』ことを好むらしい。たしかにフィンランドの夏は日本のように湿気があるわけでもなく、暑すぎることはない。日が最も高い時でも、日陰に行けばひんやりとしているくらい涼しい。そうして時間を過ごさないと毎日が終わらないのか、それともただ健康のためなのか。まだ彼らの生活で分からないことが多い。
 彼らの生活に近づいてみようと、ただなにもせずに岩山のある講演で一時間ぼーっとお酒を飲みながら過ごしてみた。日が落ちていくに連れてどんどんと風が気持ちよくなってくる。周りには10名ほど、カップルで、友人と、一人で各々が語り合い、読書をし、なにをするでもなく時間を過ごしている。空にはカモメとツバメが飛びかい、小さな虫が群をなして蠢いている。時々犬の散歩をしている人たちがわざわざ岩山に登ってくる。僕はこういう時間の過ごし方を知らない。15分もするとそわそわしだしてしまった。それでも黙って目をつぶっていると少しだけ寝ていたみたいだった。周りのメンバーは変わることなく、愛を語り、読書をし、遠くを眺めている。
 結局、1時間近くなにもせず難しいことを考えずに過ごしてみたが結局彼らがなぜこういう時間を過ごしているのか理由はわからなかった。日が出ている時間がないから、過ごしやすいから、そうした理由だけで日本人はこういう時間の過ごし方をするだろうか、いや、きっとしないだろう。こうした空いた時間に何かできることをきっと考えるはずだ。それでこそ日本の発展があったのだろうから。ただひとつ、こうした時間の過ごし方をして収穫があったとしたら『別に考えなくていいや。』と思えたことくらいだろう。難しいことを考えないということではないだろうが、こうしたただなにもない時間に身を任せるということを受領できつつあるということか。この一年間でこの感覚は変わるのだろうか。忙しい日本人にはぜひ夏の暑苦しい時期に涼しいヘルシンキでボーッと時間を過ごしてもらいたい。時間の使い方の選択肢がきっと広がり、生活の楽しみも増えるだろう。