このブログでは、浅野 翔 Kakeru Asanoがデザインリサーチの視点から、建築・デザイン・まちづくりを中心にエントリーを書いていこうと思っています。よろしくお願いします。
Kakeru Asano
1987年生まれ。デザインリサーチャー、サービスデザイナー。京都工芸繊維大学大学院修了。
連絡先 pnch.0924☆gmail.com (☆を@に変えてください。)
趣味 読書
ウェブサイト http://kakeruasano.com
久しぶりにに議員+デザイン思考でGoogle検索かけてみました
”愛知県議会議員”+"デザイン思考"は約33件
”名古屋市議会議員”は約2件
名古屋市の"議員名"は0件です。
”愛知県議会議員”+"デザイン"は約18,300件
”名古屋市議会議員”は約5,290件
となりました
別の大きな都市+"デザイン思考"で試してみたところ…*1

"東京都議会議員"は約138件
"兵庫県議会議員"は約133件
"大阪府議会議員"は約82件
"京都府議会議員"は約77件
"北海道議会議員"は約55件
"福岡県議会議員"は約49件
"神奈川県議会議員"は約40件
"宮城県議会議員"は約35件
”★愛知県議会議員”は約33件
"広島県議会議員"は約6件
ユネスコ創造都市ネットワークに加盟する12都市だと…

"金沢市議会議員"は約84件
"神戸市議会議員"は約82件
"札幌市議会議員"は約57件
"浜松市議会議員"は約53件
"旭川市議会議員"は約40件
"越前市議会議員"は約3件
"★名古屋市議会議員"は約2件
"臼杵市議会議員"は約1件
"丹波篠山市議会議員"、"山形市議会議員"、"鶴岡市議会議員"は0件
という結果になりました
愛知県・名古屋市は産業レベルでデザインは語られるものの、議員単位でみると「住民参加」「行政サービス改善」「政策形成プロセス」としてのデザイン思考にはほとんど触れられていない実情があるようです。
ユネスコ創造都市ネットワークに加盟する他都市での比較は顕著で、議会文化・政策語彙・政策アジェンダの違いが現れているのかと推測できそうです。
私的な事情で東海エリアのデザイン教育について調べていたのですが、同様に産業がデザイン対象の中心にあり、社会的・文化的・政治的な文脈が多くないこととも関連をしているかもしれません。
*1:ちなみに"〇〇会議員"+"デザイン思考"は "国会議員"は約2,990件 "県議会議員"は約1,280件 "市議会議員"は約3,280件 でした
祖母が亡くなった。あっという間に通夜が開かれ、葬儀を迎えた。
火葬によって、肉体としての祖母とは本当に別れることになった。けれど、それは祖母が完全にいなくなったということではないのだと思う。触れることのできる身体としての祖母はいなくなったけれど、親族それぞれの記憶の中にいる祖母、語られる祖母、写真の中の祖母、ふとした仕草や言葉の中に残る祖母は、これからも私たちのあいだに現れ続ける。
弔いとは、死者を忘れるための場ではない。
むしろ、死者との関係をもう一度結び直すための場なのだと思う。
親族が集まり、それぞれの祖母について語る。誰かにとっての祖母と、私にとっての祖母は少し違う。大学1年生から3年生まで、不慣れなケータイでやり取りをしたり、夜遅くまで課題をする私を待っていてくれたり、祖父母の友人と時に食卓を囲んで語りを聞いたり。
もっと言うと、私にとって祖父母はデザインリサーチの道を歩むきっかけを与えてくれた人物とも言える。京都の大学に通いながら、宝塚での居候生活は関西の建築家やデザイナーと出会い、志を同じくする同世代との出会いを促してくれた。社交的な祖母は夜遅く帰ろうが、何一つ苦言は言わずに、面白い話があってよかったなと私を認めてくれた。
私だけの記憶があるように、母のように晩年の祖母をよく知っている者もいれば、叔父や叔母のように若い頃の祖母を覚えている人もいる。優しかった祖母、明るかった祖母、少し頑固だった祖母、認知症によって不自由な身体を生きていた祖母。それらが語られるたびに、祖母という存在は少しずつ更新されていく。
そう考えると、弔いとは「思い出を保存すること」ではなく、「死者を別のかたちで私たちのあいだに迎え直すこと」なのかもしれない。
祖母の晩年は、認知症と不自由な身体に大きく左右されていた。思うように動けない身体、思うように言葉にできない時間の中で、かつての自由で、優しく、明るい祖母が見えにくくなっていたようにも感じる。
だから、棺の中できれいに死化粧をほどこされた肉体としての祖母に別れを告げるとき、私は涙が溢れた。けれど、それは単純な悲しみではなかった。もちろん、もう触れられない、もう声を聞けないという別れの感覚はあった。でも同時に、祖母がようやく不自由な身体から解き放たれたようにも感じた。
死によって、祖母は失われたのではなく、別の存在の仕方へ移っていったのではないか。介護される身体としての祖母から、語られ、思い出され、親族のあいだに現れる祖母へ。ままならない肉体に向き合っていた祖母から、記憶の中で自由に振る舞う祖母へ。
そう思うなら、祖母が自由になったことは、どこか喜ばしいことでもあるはずだ。それなのに、棺で静かに眠る祖母と別れを告げる時に涙が出る。
この涙は何だったのだろう。
それは決して、悲しみだけではない。安堵でもあり、祝福でもあり、別れでもあり、祖母との関係が大きく変わってしまうことを、身体が先に受け止めた反応だったのだと思う。
祖母は、もう肉体としてはここにいない。けれど、祖母との関係が終わったわけではない。むしろこれから、私たちは祖母を語り直していく。親族それぞれが持っている祖母の記憶を持ち寄り、照らし合わせ、時には驚きながら、自分の中の祖母を少しずつ更新していく。弔いとは、そのための時間なのだと思う。
死者を過去に閉じ込めるのではなく、今を生きる私たちの関係の中に、もう一度迎え入れること。
忘却するのではなく、変わり続ける記憶として、ともに生き直すこと。
社会とは、常に誰かの死を迎えながら、新しい生命を尊んできた。だから弔いとは、死を終わりとして処理することではなく、死者と生者の関係を引き直すための大切な語らいなのだと思う。
祖母は亡くなった。けれど、祖母は消えたのではない。祖母は、私たちのあいだで、これから別の仕方で生きていく。
2025年2月27日、名古屋のナゴヤ イノベーターズ ガレージで開催された「土地と文化とときどきデザイン」で、私は2限目「香川の文化革命−金子知事から讃岐民具連に至る道」で、中條亜希子氏(高松市屋島山上交流拠点施設「やしまーる」館長)の講演を聞きました。
中條氏は、香川県のデザイン文化と建築の関わりを深く掘り下げ、地域のデザイン政策がどのように形成されたのかを紹介。特に、香川県のデザイン政策には1950年から1974年まで知事を務めた金子正則の影響が大きく、彼が進めたプロジェクトが今の香川の文化を形作っていることがよくわかる講演でした。
金子知事は「政治とはデザインなり」という信念を持ち、デザインを県政に取り入れました。その象徴ともいえるのが、香川県庁舎(設計:丹下健三)です。
丹下は戦後日本の建築を牽引した巨匠であり、香川県庁舎(1958年竣工)は彼の初期の代表作のひとつです。モダニズム建築の先駆けとして評価されるこの庁舎は、金子知事の「県の顔としてのデザイン」を強く意識した政策の成果でした。
また、庁舎のインテリアデザインには剣持勇が関わり、猪熊弦一郎はロビーの壁画も手がけました。金子知事は県庁舎の建設を単なる行政施設としてではなく、香川の文化や技術を象徴するものとして位置付けていたのです。
1962年、金子知事と流政之を中心に、職人や工芸家を巻き込んで「讃岐民具連」が結成されました。この団体は、伝統的な民具を新たなデザインの視点で再生し、地域の産業と結びつけることを目的としていたそうです。
讃岐民具連にはジョージ・ナカシマも関わり、日本の伝統工芸とモダンデザインの融合が試みられました。また、剣持勇が「和にも洋にも合うデザイン」として「讃岐モダン」を提唱し、建築・家具・民芸の分野で影響を与えました。
また、画家の猪熊弦一郎も金子知事と深い関わりを持ち、香川県内の公共空間や施設にも作品を提供し、地域の美術環境を豊かにしたことは特筆すべき点です。
讃岐民具連はすでに解散していますが、その思想は今も香川のデザインに根付いており、現在のデザイン文化の土台を築いた重要な取り組みでした。
中條氏は、香川のデザインを記録・発信するための企画展「LOCAL DESIGN OF KAGAWA」を手がけています。これは高松市牟礼町のショールーム「蒼島(あおいしま)」で開催され、香川県のデザイン史や建築、職人技術を紹介する場となっています。
展示の中心には、「世界・日本・香川のデザイン年表」があり、香川のデザインの発展を俯瞰することができます。この年表には、金子知事の政策や、関わったデザイナー・職人たちの足跡が記録されており、香川がいかにデザインを重視してきたかが一目でわかる内容だそう。この年表づくりは中条氏のライフワークになってるとのことで、今後も更新されていくのだろうと思います。
香川では現在も、デザインを活用した取り組みが続いています。1限目を担当した井藤教授が教鞭をとる香川大学には創造デザイン学科が新設され、次世代のデザイナー育成が進められているそうです。
また、若手デザイナーの中には「デザイン年表に自分の名前を載せたい」と考える人もおり、金子知事時代から続くデザイン文化が、今もなお生き続けている証拠なのかもしれません。
今回の講演を通じて、香川県が日本のデザインにおいて特別な位置を占めている理由がよくわかりました。金子正則知事の先見性、丹下健三の建築、剣持勇のデザイン、猪熊弦一郎の美術、そしてそれらを支えた職人や工芸家たちの努力が、現在の香川のデザイン文化を築いてきたのです。
中條亜希子氏の活動によって、こうした歴史が整理され、次の世代に受け継がれている様子も感じられました。香川のデザイン文化が今後どのように進化していくのか、これからも注目していきたいと思います。 それと同時に県内に多数の工芸が残るここ愛知県で私たちがやるべきことも見えたように思います。
今週末は今年で数回目となる大同大学 情報デザイン学科 プロダクトデザインコース 卒業制作展の外部講師による講評会へ。制作物からもすっかりコロナの影響はなくなり、プロダクトや生活文化に着目したものが増えてきたなという印象です。コロナ禍が落ち着いたことで、学生が社会のことを考える余裕が生まれたのかもしれませんね。
講評時にはおおまかに「着想・調査・設計・検討・体験」を5段階評価しながら、学生の発表を見て聞いて回るように意識してます。なるべくダメ出しよりもおもしろポイントを探りつつ、よい誤解も楽しみながら。きれいなデザインや枠に収まった発想は社会に出たら嫌でも味わうので、学生が突き動かされる動機に触れられるとうれしいなと臨んでいます。
今回は作品を見て回ると、コミュニケーションツールとしてのプロダクト、自身の趣味趣向の拡張世界、並列化された機能性、パッケージとしてのプロダクト、マテリアルドリブンな実験などがありました。近年のスマートデバイスによる影響か、複数の機能と複数のデバイスが並置される作品が最も多くありました。提示したい世界観は分かるものの、高い質で複数の製品をデザインするには時間やリソースが足りない印象です。そんな中で機能性のわりきりと共感を呼ぶ造形で、明確な4つのプロダクトをパッケージまで含めてデザインした作品に外部講師票が集まっていました。
パッケージを主体とした作品も次いで多い印象です。外装や包材以上の価値を見出せられているかが重要で、それはモノへの観察力や送り手や受け手への想像力に委ねられているようです。これは自分の趣味趣向という内向的な世界を観察し続けるうちに、誰かの共感にまで飛躍する検討ができたかとも共通しているようです。蝶とエネルギーという、距離のある組み合わせが共存する詩的なコンセプトから生まれた世界観に引き込まれました。製品ではなく作品としてデザインされることで、もっと驚きと発見が生まれたのではないかと思います。
最後に、提案に派手さはないけれど、実直に社会課題や素材と向き合いつづけた学生らに個人賞を送りました。学童保育におけるDIY可能な家具、工程から見直したデザイン素材としての炭団、推し活の遠征バッグを非常用袋に見立てた提案。これらは僕自身も多大に影響を受ける故エンツォ・マーリの思想。時代を超えて愛される、使い手にとって意味を感じられる良いプロジェクトだなと感じました。
卒業制作展示の会場であったナディアパークには、1996年のデザイン博覧会を契機に設立された国際デザインセンターが入っています。しかし、今年度をもって組織が解体され、その機能は名古屋産業振興公社に引き継がれることになりました。ここで危惧されるのは、デザインの多様な可能性が十分に継承されず、インダストリアルデザインを中心とした産業振興がデザイン戦略の中核とみなされることです。本来、デザインは単なる商業的な価値創出の手段ではなく、社会や文化と結びつきながら新たな視点を生み出すものです。
経済や産業の発展に貢献することはもちろん重要ですが、デザインはそれだけにとどまらず、私たちの生活文化や価値観を形成し、社会のあり方をも再構築する力を持っています。それは逆説的に言えば、製品をデザインすることによって、私たちの生活や技術もまた製品によって「デザインされる」関係にあるということです。つまり、デザインの選択が、どのような社会を目指すのかという問いにもつながるのです。
より効率的かつ合理的にと人間中心なシステムが起因する惑星規模の課題見直しが図られる今、卒業していくみなさんには組織の権力構造や市場原理にのみ従うのではなく、社会に対して批評的な視点を持ち、積極的に提案していくデザイナーとして活躍されることを期待しています。