良いものへの触れ方、向かい方

日中に流れてきた記事では、若者のハイブランド離れを嘆く声が聞こえてきた。服飾専門学校に通う学生がファストファッションを多く購入しているという数字と、それを説明かのように学生の懐事情についても触れられている。文末には、収入が少なくなりハイブランドを購入することができない、プライドもない若者というレッテル貼りと若者にものの価値を伝えられていないアラフォー世代の嘆き声で締められていた。⚪︎⚪︎離れを嘆く声はそこら中で聞こえている。若者に見る目がない、可哀想な世代、などと批判されても、全くそのことには批評がないのでつまらない。この価値観にはむしろ、これまでにないものづくりへの意欲を僕は感じる。

服飾専門学生の「よく買うブランド」ランキングに見る危機 | http://t.co/e75rNpfYJk http://t.co/ae1iEyPBP1

この問題は何も「良い物に触れずに育ってきたから、良い物がわからない」ということではないのではないだろうか。同じように「良い建築に触れずに育ってきたから、良い建築がわからない」というような批判も少なくないが、ハイブランド=いいモノ、著名建築家の建築=良い建築という図式が成り立っていた社会背景が今は移り変わっているということに過ぎない。

ファッションではリメイク・ユザラー、建築ではリノベーションが盛り上がっているように、既存製品や空間を改編し、私らしさを作り上げるDIY文化が日本でも進行しているということ。消費から改変へと意識が移ろうなかでプロシューマーが発生し、所有から共有へと移ろうなかでキュレーション能力が高まっている。よって、ハイブランドのプロダクト、有名建築家の建築というのは、コスト・改変性・流動性を考えると足かせとなることに気がついていのではないか。

「良い物がわからない」から購入しないのではなく、「良い物」郡を構築していく時に購入はひとつの方法でしかなく、むしろ、より効果的に「良さ」へ近づく方法として、制作や選択という手段を獲得したと見ることができるのではないだろうか。ただし、「良さ」という軸を作るためにハイブランドや著名な建築は、一つの判断材料と成りうるので、必ずしも切り離すことはできないが、それだけに固執する必要はない。対立だけでなく、両者の組み合わせからこれからの「良さ」が立ち現れることに期待したい。