『居座り続けるための設え』としてのリノベーション

f:id:pnch:20160407015923j:image
国土交通省が定めた指針によると、空き家とは居住など定常的に使用されていない状態が1年以上続いた建物であるという。物置として使用していようが、イベントで1日2日貸していようが、使用者がいない限り、その建物は空き家として認識されてしまう。文字通りの空っぽの家ではなく、使用者が長期間不在の家であるということだろう。

そうした空き家が総務省の発表で80万戸以上全国にあり、全体の住戸数の10%を超えている。さらに称し高齢化がこのまま進むことで、20年後の2033年には全体の30%にあたる200万戸が空き家になると野村総合研究所が発表した。饗庭伸さんの「都市をたたむ」では、高密度都心部における空き家が顕在化するとスプロール化ではなくスポンジ化を引き起こし、行政サービスや資本が縮小していくことに警鐘を鳴らしている。本書でも実践されているように、中規模の都市である程度集まって暮らす方法が日本国内で求められているようだ。

空き家問題には当然、空き家を管理するものと空き家を使用するものに分けられる。前者は大家やオーナー、不動産管理会社などの地権者であり、後者は借り手のような権利的には弱者な者たちだ。空き家問題が都市計画の中で取り上げられている背景には、課題が建物だけではなく治安や社会福祉といった社会サービスにまで及ぶからであり、決して、自由な生活スタイルを支持するためのものではない。
一方で、後者の借り手や使い手は、自分たちで建物の修繕をすることを楽しんだり、手間はかかるが相場より低い金額で借りることができるため、行政きな支出を圧迫する空き家問題ではなく、自分の生活の延長の中に捉えている。複雑に構築された不動産産業の中でブラックボックス化された、建築に関わることをもう一度取り戻す「民主主義的な活動」に知らずのうちに参画しているのではないか。先に触れたスポンジ化したエリアでは、リノベーションによって開かれた環境はシェアハウスやお店など、交流を引き起こし、次の活動を引き起こす手かがりとなる。

つまり、ここで触れる空き家問題におけるリノベーションとは、行政や所有者などの地権者がもつ絶対的な権利を借り手や住まい手たちの創造的な実践によって、全体へ分配する方向に働く行為だと言えよう。欧米諸国ではクリエイティブ資本論スクウォッティング支援運動が議論されているように、日本国内でも「ヒップな生活」のためのリノベーションではなく、暮らしを手に取り戻すことを議論することが必要ではないだろうか。その時、原状回帰義務や定借期間契約などは権利を保つささやかな抵抗に過ぎない。少子高齢化が過剰なまでに進行する将来の日本において、リノベーションによって引き起こされる建物の民主化は、共生社会の礎えになるだろう。そのときに私たちは「居座り続けるための設え」をどのように社会にデザインすることができるだろうか。