ある数字を超えると批判を避ける抽象的な主張が得をするのかも

先日行われた京都市長選挙。候補者の具体的な主張と得票数がみごとに反比例していました。具体的なことがある方が賛成反対と意思表示しやすいと思うのですが、抽象的な「いいこと風」しか掲げていない候補書の当選が不思議でした。

 

仕事にせよ、趣味にせよ、抽象的な言葉が組織から同意を得られることはあまり多くありません。権力を有した人でも、周りの人は同意はせず、しぶしぶ働いていることが多いのではないでしょうか。具体的な目標や数字、さらに締め切りはわたしたちの活動する動機となります。にもかかわらず、政治の世界では異なるようです。それは、複雑で多様な問題を扱っているから、なるべく利害関係者の批判のまとにならない事で得られる票がまだ多いからではないでしょうか。

 

数十人程度であればステークホルダーの属性も限られ、ともに活動するには具体性があるから自発的な行動を促せるのでしょう。しかし、規模や種類が多くなるにつれ、具体的な事象のひとつひとつに利害関係者間の調整をする必要が出てきます。それゆえ、なんとなくやり過ごすことのできる抽象的な言葉が、敵を作る事なくやり過ごすことにつながるのだと僕は思いました。スタートアップが面白くなくなり、求心力が落ちていくのもほとんど同じようなことに起因しているのではないでしょうか。

 

今ではこの抽象的で良さげなことで波乗りできる社会なのかもしれませんが、大きな社会課題にどんどんと挑戦する未来へ進むためには変わる必要があると僕は思います。具体的な内容とスケジュールを提示して前に着実に進むためにも、たくさんの人間が寛容で、行動と評価が両立するような社会を目指していきたいです。